自分にとっての"数学をやる"ということについて
はい。
題名の通りに思うところがあったので書く。
ここ一年くらいでガタガタの数学をもう一度やり直す過程で、個人的に分かりやすいなと思う教科書に出会う経験が何回かあった。
この間に段々と今回文章に書いてあることが目に見えてきて、今日がいい機会だなと思ったので気が乗っているうちに書き留めておく。
テキストのみだが、自分がどういうふうに数学に向き合っていたかを簡潔にまとめたので読んでもらえたら嬉しい。
###### 中学時代 -----
中学くらいから高専3年の期間、つまりは基礎学力をつけていく大事な大事な期間に"数学"が苦手だった。
ちゃんと覚えてないけど、つまずいたのは確か"関数"という概念が導入されたとき。
切片?傾き????増加量?????????????
??????????????????????????????????????????
中学の頃の数学の教師は別に特別面白い授業をするとか分かりやすいとか、そういう感じでもなかった。
こちらもこちらで授業を熱心に聞き入る熱量もクソ真面目さも持ち合わせておらず、さらには社会や英語、国語の方が面白いなと思っていたのでこうなったら最後、解決しない。
「意味ワカンネ」
これで終わり。
大天才ではないので直感的理解ができるわけでも、既に持っている大量の知識と付き合わせて理解を試みることができるわけでもない。
あいにく携帯やPCともほぼ無縁だったためインターネットで調べてみるという解決策も持ち合わせていない。
そりゃあ未来永劫分からない。
語の意味が分からない。「傾き」はまだしも「切片」ってなんだ、「切片」ってどういう成り立ちの過程があってその熟語に?
問題が面白くない。座標が与えられて、そこを通る式をかけ。へぇ、そう言われましても。この数字は何か意味が????
本質をわかっていない状態がずっと続く。
何となく「ここにあの数字を入れたらなんか答えっぽいのが出る」とか「練習問題でこういう証明だったからそのまま書けばいいでしょ」とかそういう雰囲気でやる。
いくつかは当たったりもするが、論理的に答えを出していないのでまぁ普通にいい点数は取れない。
こんなのが関数をキッカケにもう在学中ずっと続く。
###### 高専時代 -----
こんな感じで雰囲気で中学数学をやっていたのに、運よく高専に入れた。
まぁ最低限のラインは通っているという高専側の判断で入れているわけだが、もちろん入った後も問題は残る。
少なくとも自分にとって高専生活前半の数学の授業はやさしくはなかった。
数理の本質を噛み砕いてちゃんと理解してきた人間や、単純に理解力の良い人間が集まっている側面が至極あるわけで
しかも高専後半の講義に備えて詰め込んで講義されるので、数学の理解が甘く天賦の直感も持っていない人間が受けるにはどう考えても補足されるべき事項や思考のための時間が足りていない。
おまけに科目は基礎的な高校数学の分野にとどまらず、微積・線形代数、さらに2年生の専門授業で波動方程式や分子の分配関数まで出てくる(これは明らかにおかしいが)。
ここで重要なのは、そうなった場合に自分でその「足りない事項」や「思考の時間」とやらを増やす努力をすることであり、大抵はそうするはずだ。
ただ
ここで恐ろしい事実が事態を悪化させる。
中学で「理解する努力を放棄し続けた」という体験。
それに伴って「数学はよく分からないもの」「自分には到底、理解できない」という意識が深く深くまで根を張っていることである。
これはもはや宿痾と呼べるものであり、「溜め込んだ夏休みの宿題を大急ぎでやる」ようにやれば短期間で終わるものではない。
宿題は外部から「やられる」ことで解決するが、この場合は負債を溜め込んでいるのが自分自身という人間であるため別の外部勢力が100%干渉して解決することはできない問題だ。
世が世で自分が皇帝であれば取り巻きの臣下や御用学者に任せきって解決の依頼を試みることもできたかもしれないが、私は朕ではないので独力で頑張るしかない。
###### 解決への道1 -----
いつ頃からかは忘れたが、さまざまな努力を少しづつできる範囲で初めてみた。
講義後にノートを見直して式を自分なりに解釈してみる。
アラビア数字と記号の羅列の抽象的な文に具体性を持たせて考えてみる。
図を描く。
パッと見で分からない式はとりあえず写経してみる。
分からない記号はインターネットで逐一調べる。
ここで不遜にも「寝食を忘れて取り組んだものだった」と綴れるくらいやっていたら、いっぱしの数学徒にでもなれていたかもしれない。
だが先述したように病理の根は深く、専攻が数学というわけでもなかったのでそうはならなかった。
幸いなことに段々と理解を深めていけたので、3年終わりには定期テストも問題なかったし卒業までには「数学をやってみる」という抵抗感がだいぶ消えた。
これは大きな収穫だったと思うし、ここでの克服がなかったらこの後に大学に行こうと就職しようとあらゆる数式が持つ文脈に対しての感受性が低いままだったはずだ。
###### まだまだ残る後遺症 -----
問題が消え去ったかのように聞こえるかもしれないが、実は全然そんなことない。
高専で行ったのは「やってみることへの抵抗感・あきらめ」という心理的な要素の克服が大きかった。
大学に進学して2年生の時には分からなかったが、3年生で気づきそして4年生の今
ここにきて毎日実感する
うわっ...私、数学できなすぎ...!?
そう、高専で数学できるマンに転生したわけではなく、ただ-100が0になっただけ。
スタートラインに立っただけということ。
幸か不幸か高専時代の専門科目や大学3年あたままでの講義では数学があまり出てこず、自分の勉学において重要な位置を占めていなかった。
自分の興味が深まりいざ研究室に配属されて、専門的な文献や論文を読むようになると、その弊害が如実になる。
結果の解釈や手法の原理に、数学及び情報科学がふんだんに使われているからだ。
もはや生物学科で学んだことだけで生物学の研究活動はできないと考えていい。
便利な解析ツールが溢れんばかりの時代になったが、ユーザーは正しい使用のためにその背後にある原理を理解することが求められる。
これは本当にあまり意識してこなかったし、高専では教員から言われた覚えもほとんどなかった。
またさらに分の悪いことに大学に編入で入っているため、受験数学は本当によくわかっていない。
高校・大学の教養で習ったものだけで文献がほとんど理解できるわけではもちろんないが、素養があるのとないのでは理解の壁を越えるのに必要な活性化エネルギーが大きく異なる。
欠如しているならば補完してれやればいいだけ。(時間はかかるが)
幸いにしてやる気だけは持てたので潔く、また同じようにできるだけ頑張る。
###### 解決への道2 -----
高等な内容になってくると、少し苦しくなってくる。
また独学でやる場合は検索を繰り返すのではなく、少しでも体系的に学ぶ方がよろしい感じがする。
大きな手法の一つは、特定の文献に固執せず色々な媒体に目を通して自分がわかりやすいなと思うものを見つける努力を躊躇わないこと。
個人的にだいぶ教科書との相性があるのでこうすると、すごく分かりやすい記述や本に巡り合えることが増えた気がなんとなくする。
中高は大方、学校や教員から指定された書籍が教材として独占的な地位を占めるケースが多いことや図書館の能力に限界があるので、そういう機会が削がれていた一面があるんだろうなと今になって感じた。
まぁなんとなく自分にあったやり方がわかってきたので、この年になってとはいえ時間をかけながらやってきた価値はそこそこあったのではないか。
###### 今後 -----
モチベはなんかうまいこと続いているので、先端科学に耐えうる数学力を養う努力を頑張っていけたらなと思っている。
多分本当に偶然だなとは思うが、あの時の堕落度合いから抜け出せて幸運だったなぁと。
母語であれ外国語であれ数式であれ、そこに書いてあることが「分からない」「分かる」「自分なりに解釈して理解できる」という各々では全く価値が異なる。段階が変わるだけで、世の中の現象に対する解像度が本当に大きく上がり明瞭になる。
この感覚はとてもいいモノで、勉強を続ければ途切れることは少ないはず。
いつまでモチベとそこそこに回る頭を持っていられるか分からないが、続けるだけ続けていけたらなと思う。
2022/1/13